[日記] 言葉のイメージ

2010/10/26

こんにちは。きんくまです。

最近、上の子供が言葉の細かい使い分けについて興味がわいてきたようです。
なので、説明してみたところ、自分でも興味深く整理できたので、書いてみます。

そのときの題材は1人称の使い分けについてでした。
わたし、私、あたし、俺、僕、など1人称の名詞はいろいろあります。

使い分け方としては
■男女共通
わたし、私

■女の人
あたし

■男の人
俺、僕

などとなります。さらに、俺は僕よりも少し言葉づかいとしては若干乱暴で、子供というよりは大人が使う傾向があります。また、僕は俺よりもやさしいイメージがあるのですが、俺よりも幼いイメージがあります。
あたしは、女性のイメージがあり、男性が使うと、ちょっとおかまっぽい、などといわれたりします。(おねえさんぽい??)

このように、言葉自体がもつ「本人」を指す機能と、それに加えて各「イメージ」があることがわかります。

同じものをさしているのに、その指すものによって性格のことなる言葉を使い分けるってところが面白いなあと思いました。

あと、ある日、子供が「今日は牛乳をあっためなくていいよ」といいまして。
それに対して、一応確認をしたんです。
A 本当はあっためてほしかったけど我慢というか遠慮をしているのであたためなくていいといっている
B あたためてほしくない(冷たいままがよい)

この辺は日本語というか日本の文化なのか、言われたことに対して「察する」ということが美徳とされてきた文化が自分にしみついています。なので、いわれたままにうけとれば、あたためなくていいのですが、察するという点では一応確認しておきたいと。

そしたら、今日は冷たいままがいいと言ってました。なので、もし冷たいままがよいのであれば、
「冷たいままのみたいから、あたためなくていいよ。」もしくは「冷たいまま飲みたい」とだけ言えばよいと伝えました。さっきの言い方だと、聞き手が変に気を使ったりすると。

なんでこんなこと書いているかっていうと、最近読んだ本に、日本語というのはかなりの部分で聞き手側を頼りにしている言語で、英語というのは話し手の方に寄っている言語と書いてありまして。
つまり、日本語というのは言葉が話し手だけで完結するのではなくて、聞き手がいて補完されることで初めて成立するのに対し、英語は聞き手がいなくてもあまり困らないということなのかなと。
ちょと極論すぎるかもしれませんけど。

でもまあ、日本語っていうか日本人って「察しろ」っていう空気がいたるところにあって、実際「察する」ことができる人は「気がきく人」で、「察する」ことができない人は「気がきかない人」ってなりますからね。
そんでやっぱり「気がきく人」ってのが集団の中では重宝されるという。

あれ、なんだかまとまりがなくなりましたけど、まあ最近子供がひらがなを覚え始めたり、数字を数えたり読めるように少しずつなってきまして、そんなのを通していろいろと考えているわけです。


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